ivataxiのブログ

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おすたかやまから

29年前にはぼくは29才若かった。横浜の友人と「御巣鷹山以外の周りを回ろう」という自動車の旅に出た。横浜の友人は静岡に来て、うちの赤いシャレード1000ccガソリン仕様(のちにジーゼルにも乗った)を交代で運転して行った。三ヶ日から乗って、高山を縦断して日本海側を走る。富山の友人の家に一泊。新潟から会津・千葉の友人と会う。横浜の友人を家に送り、静岡に戻った。そのクルマはその後すぐナゾの廃車となって、シャレードジーゼルターボ1000ccに代わった。もうそんな無謀なクルマでの無計画な旅はできなくなった。29年年をとったらしい。
所で、フェイスブックを数年前から始め、大阪での高校の同級生がトモダチになっている。メッセージで「知ってるか?O君、あの墜落した飛行機に乗っとったの」ということを昨年知った。
O君は高校のバレーボール部をボクがキャプテンで立ち上げ、彼が次のキャプテンになったといういきさつがあり、ボクには暗黒の記憶である。ぼくは中学でもバレーボール部を作ってキャプテンをしていたから、クラブを作る才能はあるようだが、プレーヤーとしてはベンチを温めていた。O君は中学時代大阪の海外親善選抜メンバーだった。身長はそうでもないのにサージェントジャンプ(助走しないで飛ぶジャンプ力)が1m位あった。ぼくは身長も負けていたがサージェントジャンプは50cm位だ。一緒に飛んで、ぼくが地面に着いてしばらくは彼は空中に浮いたままだった。だからネット際で、見た目がそんなに高くない彼を侮り、ブロックは先に地面に着いて好きな場所に彼はスパイクを決めるのだ。サッカーでいえば「翼君」のように天才なのだ。
たぶん高校の同期の女性と結婚したようだからきっと知っている人なのだろうが、良くわからない。彼は子供を残したようだ。もしも、バレーボールをやっていたなら「天才」の片鱗を見せてくれただろう。彼は人生でも空から帰っては来なかった。