ivataxiのブログ

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123便が落ちた

ぼくにとって高校時代の大きな分かれ道はバレーボールを辞めたことだ。新設高校で何もなかった所からバレー部を作りキャプテンになった。1年生の時は顧問の先生がいなくてぼくが代行を務めた。2年生からは日体大卒の新任教師が顧問になった。ぼくはベンチとなり「トレーニングキャプテン」というおかしな役目を2年生の一年間続けた。試合のキャプテンというもう一人のキャプテンがいて、彼は天才だった。名前をA君としよう。中学の時には大阪での外国チームとのテレビ対戦の選抜メンバーに選ばれていた。ぼくの中学からも男女一名づつ選抜されたから良いチームにいたのかも?彼はアタッカーでセッターのコンビと二人で二年から入部して実力差を見せつけられた。その時なぜ辞めなかったのか悔やまれる。トレーニングの指導なら顧問がやれば良い役目を都合よく一年やって試合には出れないのにキャプテンマークのついたユニホームをベンチで着ていた。2年の終わりにバレー部を辞めるのだが、すぐにキャプテンマークのついたユニホームをボクが不在の時に部員たちが取りに来たという。だから何も思い出に品もない。高校三年から「デザインでもやろうか?」と、思いついたように東京の代々木ゼミ夏期講習に行った。また、三年から同好会から部に変わった「マンガ部」に入った。ここでは逆に研究会の時の代表が先生の指名で「部長は男」と決めて、漫画研究会だったメンバーは全員辞めたので、三年はぼく一人あとは一年生の女子ばかりになった。結果、浪人の末東海大学のデザイン科を卒業し浜松の広告代理店の就職した。JAL123便が御巣鷹山に墜落した時、自動車で大学の友だちと走っていた「御巣鷹山の周りを回って戻ろう」というプランで、静岡・岐阜・福島・富山・新潟・福島・埼玉・千葉・神奈川・東京そして静岡というコースだった。坂本九さんがその飛行機で亡くなったことが有名だった。後に横山秀夫さんが「クライマーズハイ」という作品で当時記者時代のことを書き込んでいる。8/12日がその日だということは忘れていた。最近フェイスブックで大阪の友達と書き込みなどで交流がある。「あの事故でA君も亡くなっていた。その時、奥さんのお腹にいた子が就職したという記事が出ていた」というメッセージがあって、ネットで見た。それまでは「A君は天才ですべての幸福を持って生まれてきたような男だったから、きっと幸せない人生を今もどこかで送っているに違いない」と漠然と思っていたのだ。フェイスブック明石家さんまさんが「生きてるだけで丸儲け」の意味を載せている人(切なくて悲しくてさん)がいた。「本当はJAL123便だったが、その前の収録が早く終わり、キャンセルして早い飛行機に変えた。ニュースで123便が落ちたことを知った時はショックだった」という。さんまさんは有名人として今も生きている。A君は亡くなり息子さんは就職が決まり、奥さんは女一人で苦労したのだろう。同じ飛行機をめぐる生死を分けた人生だ。「生きてるだけで丸儲け」確かにそうかも知れない。