ivataxiのブログ

絵 文章 映画

家康 お大 覚え

駿府で人質時代「鶴姫」と「亀姫」と一緒だった「竹千代」。「竹千代」はのちの「家康」・「鶴姫」はのちの「築山御前(家康正室)」・「亀姫」は「飯尾連竜(曳馬城主)」の正妻「お田鶴姫(死後、椿姫)」となる。きっと家康は「亀姫」を好きだったのだろうが、「鶴姫」は今川義元のメイなのでおねだりして先に「竹千代」と婚姻を結ぶ。飯尾連竜は、井伊直平の手足であり「井伊尾」と記されたりもする。渡来人だったので表舞台に出なかったという説も。家康の築山御前との長男は、のちに切腹する「信康(家康の康と信長の信)」だが、女の子もいた。それが「亀姫」という。幼馴染と同じ名前をつけたために、夫婦仲が悪くなったという話も。この亀姫は「新城の奥平信昌」の正室に。側室を許さず、娘婿の立場。「サザエさんのマスオさん状態」だが、のちに大出世。美濃加納10万石の大名に。七光り?信長の提案で「新城の大名」に嫁いだという。先日、鳳来寺山に行き「長篠の合戦」の話に触れた。このロケーションで何で合戦?とも思ったが、信玄のみつけた「津具金山」への入り口であり、どうしても資金不足の勝頼には必要な合戦であったはず。この合戦に勝った、信長・家康連合は「津具金山の入り口」をどうしても押さえたかっただろう。なので、新城を納める「奥平」をどうしても一味にする必要があっただろう。という亀姫推理。


おだいの方は、家康の母。武田信玄の側室で、双子(畜生腹)でいなくなった女性と重なる部分がぬぐえない。信玄と勝頼が似ていないのと、家康と信玄が似ているという不思議。この都市伝説がもし本当ならば、家康にはもう一人双子がいたことになる。今川へ人質に出される予定だった家康は、戸田家により織田家へ人質に出された。織田信広(信長庶兄)と今川の人質交換で、家康が駿府に18歳まで行ったという。後に、家臣たちも「自分は、安く買われて、18歳まで駿府に住んだ」という話をしている。世良田二郎三郎元信という人物らしい。松平家でも「二郎三郎」のような名前が多い。18歳からはどんな人生だったのか?「鉄砲の達人となり、関が原で活躍した」という話もある。だが、関が原以前、桶狭間で家康が絶命していたならば、その頃から入れ替わったということもある。「替え玉」「影武者」として、ベンチに温存されていたのだろうか?もとより、双子であったならば、その後の活躍も不思議ではない。「ワイルドスピード7」で、ポールウオーカーが、撮影途中で亡くなって、二人の兄弟が一部代役で映画は完成された。8作目では「彼は家族が大事だから」というセリフで、ポールウオーカーは出演していない。映画と歴史は違う土俵だが、一つの作品が完結前に、主役級がなくなった場合はこんなキャスティングもありか?


「家康は二度死ぬ」という、スパイ映画はありません。でも、最近になってそんなネット話題。堺で家康は亡くなった疑いがあるとか。籠で逃げる時に、槍でつかれた。後で籠を開けると、中で亡くなっていて、堺に葬られたとか。後々、家光なども堺を参っているようだ。では、その後の家康は誰か?似た人はいたようだ。影武者?


家康 ポール・ウオーカー
おだいの方は、家康の母。武田信玄の側室で、双子(畜生腹)でいなくなった女性と重なる部分がぬぐえない。信玄と勝頼が似ていないのと、家康と信玄が似ているという不思議。この都市伝説がもし本当ならば、家康にはもう一人双子がいたことになる。今川へ人質に出される予定だった家康は、戸田家により織田家へ人質に出された。織田信広(信長庶兄)と今川の人質交換で、家康が駿府に18歳まで行ったという。後に、家臣たちも「自分は、安く買われて、18歳まで駿府に住んだ」という話をしている。世良田二郎三郎元信という人物らしい。松平家でも「二郎三郎」のような名前が多い。18歳からはどんな人生だったのか?「鉄砲の達人となり、関が原で活躍した」という話もある。だが、関が原以前、桶狭間で家康が絶命していたならば、その頃から入れ替わったということもある。「替え玉」「影武者」として、ベンチに温存されていたのだろうか?もとより、双子であったならば、その後の活躍も不思議ではない。「ワイルドスピード7」で、ポールウオーカーが、撮影途中で亡くなって、二人の兄弟が一部代役で映画は完成された。8作目では「彼は家族が大事だから」というセリフで、ポールウオーカーは出演していない。映画と歴史は違う土俵だが、一つの作品が完結前に、主役級がなくなった場合はこんなキャスティングもありか?


徳川三代将軍家光が、日光の東照宮に参拝された時、その縁起に「松平広忠が立派な世継ぎを得たいと思い、奥方と共に鳳来寺に籠もり祈願して生まれた子供が家康であった」と書いてあったことを、お読みになって、ここに東照宮を建てようと決心されたのでありました。でき上がったのは、四代将軍家綱の代。慶安4年(1657)で、江戸時代初期の建築法を残す貴重なものとして国の重要文化財になっている。


東照宮(国重要文化財
松平広忠の夫人伝通印於大の型が鳳来寺薬師如来に祈願して、家康が生まれたと伝えられ、その因縁により3台将軍家光が造営したもので、日本の東照宮の一つとなっています。


徳川家康公を祭るこの東照宮は、三代将軍家光公が発願され、慶安4年(1651)四代将軍家綱公のときに完成したお社で、昭和28年(1953)には本殿・拝殿・幣殿・中門・透塀・石柵・石灯籠などが国の重要文化財に指定されましたが、長い年月の経過で一部に損傷もあるので、建造物に触れないようご注意願います。
なお水利が不備なので、タバコなど火気に十分ご留意いただき、この貴重な文化財の安全管理にご協力ください。


次郎三郎 竹千代
徳川家康のお父さんの「松平広忠」さんは、幼名「竹千代」で、家康と同じ。浪人時代(お家騒動で逃亡)「次郎三郎」を名乗り、これも家康と同じ。(親忠は次郎家の三男。岩津松平家親長戦死のため、次郎三郎家の惣領に親忠が。家康は親忠の末裔の長男なので、次郎三郎太郎)不思議。
家康の母親「お於の方」の、戦死したお兄さんの名前が「信康」で、築山御前との長男の名前も「信康」。不思議。

 

埋蔵金 埋蔵経
埋蔵金が気になる。佐渡金山を元手に上杉謙信は戦国活動まい進したとも。でも、当時は鶴子銀山で、佐渡は本間氏の領国で、直接上杉謙信の領国ではなく、戦国時代が終結して徳川が管轄したという。土肥金山も有名だが閉山。小説で「上杉謙信佐渡金山を資金源にしたという記録がないのは、秘密にしたからだ」と、作者。それもそうかも?
最近、鳳来寺山付近、津具金山というのがあったと知った。武田信玄が砂金で金を採取したというが、あまり取れなかったとか。でも、昭和に城山豊とおいう人が、金脈を確定している。これも閉山。徳川家康の所有した金山は、後々、日本国(天皇家)の所有となる。
チベットには「埋蔵経」というのがあるそうだ。時代が必要とする経典がその時代に現れるという。
ゴッホの才能・テスラの知性・ユングの考え方は100年前には埋もれた人材。だが、今では、ゴッホの絵は投機対象。テスラの無線通信・無線充電は近未来の技術・ユングの心理学の多様性も理解されつつある。
ある意味、埋蔵経に似ている過去の才能。
佐渡金山・土肥金山・津具金山は閉山されている。でも、時代が求めるならば、その最新の技術で金は採掘され精製されるだろう。これもある意味、埋蔵経に似て。


水野 大(お於の方)
家康のおじいさんは、水野の嫁を離縁させて、自分の側室にした。それが、家康の母「お於の方」。おじいさんが死んで、その息子宏忠の奥さんに。実家、水野家の父親が亡くなり、異母兄は今川から織田へ寝返る。で、「お於の方」は、家康4歳なのに離縁されて、水野家に戻る。久松俊勝と再婚。
いや、まだまだあるけど、この辺で。


お於の方 築山御前

男の歴史は教科書にある。女の歴史はウイキ調べ。水野 大こと「お於の方」は、家康が4歳だった頃だから、きっと離れたくなかっただろう。お於の方のお母さんが家康の面倒を見たという不思議。水野の実家が、今川から織田へ寝返ったことから、当時「桶狭間以前の戦国時代」だったので、今川の機嫌をそこねることは松平家にはできない相談。一旦、水野を離縁させられたお於の方は、またしても水野の実家に戻る。そんなこんなのエピソード。
家康は駿府で、鵜殿長持の娘?(亀姫・のち曳馬城主飯尾連龍の妻お田鶴姫)と、今川の娘(井伊直平の娘、戦略的に縁組と番組。瀬名のさな姫)の娘である「築山御前(幼名、鶴姫)」との幼い恋。のちに自分の娘に「亀姫」と名づけた家康の心境はいかに。
桶狭間で織田軍の逆転勝利。家康は岡崎に戻る。だが、今川とあまりに縁が濃い「築山御前」を、お於の方は良く思っていなかったとか。で、岡崎城に入れてもらえなかったという深読み。また、その子「信康」にも「自害」の命令は織田信長の命令とも。だが、織田信長も家康もそこまでは考えていなかったかも知れない。お於の方の意向という裏設定もありなのかも?


藤城豊氏は、明治41年、旧八名郡七郷村能登瀬(現新城市能登瀬)に生まれました。画家を志し、故郷を後にしましたが、旅芸人一座の画家、傘屋の小僧などを経験した後、豊橋鉄道関係の技術者として頭角を現しました。鉄道建設の仕事に携わるうちに、岩石や鉱物に関心を持つようになり、熱心に勉強し知識を蓄えていきました。そうした中、金の価値が高くなった昭和のはじめ、当時の豊川鉄道の社長から「津具金山」の開発を命じられたのでした。昭和7年、24歳の時でした。津具金山といえば、武田信玄が黄金24万両を得たという記録がありますが、それは砂金が中心でした。以後、プロの鉱山師が、何人も採掘を試みましたが、ことごとく失敗した難しい金山でした。


その開発は困難を極めました。信玄抗や、その後の鉱山師が掘った記録なども調べ上げ、旧抗口を見つけると、危険な場所は部下よりも先にもぐって調査を進めました。
苦闘が連日続く中、津具金山は、他の金山と異なり、金の粒子が極めて細かいことに気づきました。今まで捨てられていた泥をかき集めて、日立鉱山に送り、分析したところ、多くの金が含まれていることが判明し、鉱山は開発の可能性を見出すことができたのでした。やがて三番抗。富鉱帯にぶつかり、さしもの難しい津具金山の再開発を見事成功に導き、一年後には国の重要鉱山として認定されるに至りました。
昭和10年4月に、一時下山し、全国の鉱山の調査に出向していましたが、昭和13年に、再び請われて津具金山に登り、鉱山の最盛期を築きました。


長篠のの戦の落武者が、寒狭川の中流にある小松集落にさしかかって、民家の庭に杖をついきさした。土地の者は、その剛力を見て、ただものではないと思い、その杖に手を触れなかった。落武者は武田勝頼であった。杖からは、桑の芽が出たが、下方に向かってだけ伸びるので「さかさ桑」と名づけられた。近年、それが枯れたので、土地の人が惜しみ、新しい桑をこの土地に植えた。


天正3年(1575)5月、武田勝頼軍15000が、徳川家康の将、奥平貞昌以下500が守るこの長篠城を包囲して攻防約10日、織田信長3万・家康8000の援軍は、5月18日、西方4kmの設楽腹に到着して陣を築く。武田軍は20日長篠城の囲みを解いて設楽原へ進出。21日は夜明けと共に、織田・徳川軍の陣地に突入し、壮絶に戦うが、数千の銃撃にさらされ歴戦武勇の将士の多くを失った。勝頼は数騎に守られて敗走した。

 

5月14日、武田軍は総攻撃をしかけた。城中の食料はあと4・5日分だけ。その夜、鳥居強右衛門(すねえもん)は、徳川家康へ援軍を以来する使者として長篠城を抜けた。梅雨の時、増水の寒狭川へおりて、豊川を下ること4km。15日朝、かんぽう山で脱出成功の狼煙(のろし)をあげ、岡崎へ走った。(長篠から岡崎までは50km)岡崎には援軍織田信長も到着していた。家康、そして信長の前で、城の危機を訴え、周りの人々も感動した。使命を果たして、休養を勧められたが、彼はすぐ引き返した。
16日の朝、再びかんぽう山で「援軍来る」の狼煙三発。そして長篠城の対岸まで来たが、厳重に警戒する武田軍に捕らえられた。
武田軍から「援軍は来ない、城を開け、武田軍は厚くもてなす」と、呼ばるように説得されて長篠城二の丸近くに立った。(この時、城は本丸と二の丸だけ残る)しかし「援軍は来る。この眼で見てきた。あと、2・3日、堅固に守れ」と叫んだので、対岸の篠場野の地で、磔にされた。鳥居強右衛門(すねえもん)いえその時、36歳。18日、織田・徳川3万8千の軍は、設楽原に到着して陣をしいた。


先日、本長篠鳳来寺方面に行った。他の人の運転に同乗しただけだから付和雷同。歴史も知らないで、頻繁に田峰観音に水をくみに行っていたから、本長篠も鳳来山も近くを通過していた。1995年にオウム事件があり「きれいな水を飲む」ことが、彼らの習慣に似たところがあると感じ、水くみにもいかなくなった。まだ、開館前だったので景色を眺めるだけだった長篠城。この近辺が武田軍と織田・徳川軍の合戦場になった訳がわからない。
鳳来山の資料館はちょうど開館時間だったので、見ることができた。「津具金山」を武田信玄の頃、発見した話が載っていた。当時は砂金。この入り口が本長篠近辺。もしかしたら、この合戦の場所は偶然ではなくて、金山の権力闘争だったのかも?昭和まで「田口線」という、軽便鉄道が金山付近を走ったが、今は廃線。愛知県の自然保護対象区となり「石などを持ち帰ることは犯罪」ということに。
権力が、武田から織田・徳川へ移り、明治以降は政府の所蔵。


馬防柵
本長篠近辺に寄る。まだ、資料館が開いていなくて、城跡などを散策。そこにはなかったが「馬防柵」というのが当時発明されたような話。武田信玄が生きていた頃。「騎馬軍団」は最強伝説。立っている人より高い目線・すばやい動き、しかも疲れない馬上。馬を狙われれば困るけど。信玄亡き後、勝頼は信玄の残した軍団を消耗させた。その間に、織田軍は「火縄銃の三交代作戦」に、戦術の舵を切った。玉をこめる間に襲われるのが怖いので「馬防柵」は作られた。でも、熱い銃身を置く・置いて狙う・手も疲れないなど、馬を留め置く意外にも有用。
今日「アメリカ軍がホルムズ海峡で、イランの無人機(ドローン)を、電子攻撃で撃退した」というニュース。なんとなく「現代の馬防柵」。