ivataxiのブログ

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勘助 由布姫 信玄

勘助と由布姫と信玄

山本勘助という人は架空の存在ということになっている。最近図書館で借りた「歴史人」の中に「市川文書に菅助申すという記録があった」という。どうやら、存在はしたようだが、最前線武闘派ではなく、知的後方知略戦略城作り担当だったのかも?何しろ諏訪を落とし、城主を自害させた勘助。美しい姫(由布姫・湖衣姫・諏訪の御料人・勝頼の母)と出会う。「その娘を娶りたい」と、信玄に進言。でも、周囲からは「自分の父親を自害にい追い込んだ主と結婚すれば、首をかかれても可ナリ」ということに。いきさつはわからないが、結局、おやかた様の信玄の側室として、息子勝頼の母となりロウガイで早世。なので、信玄の死因はロウガイだった説が長い。最近は「胃がん説」も。
ここからは、勝手な妄想を申そう。
信玄は自分が手下(といっても重鎮)勘助のみつけたオンナを手つきにした。そう見せかけて、実は勘助と由布姫は事実婚。子供も実は勘助の子。勘助は戦争ですぐ亡くなる。由布姫も病死。もし、勘助の子ならば、信玄はロウガイがうつってはいないかもしれない。残る絵では、信玄と勝頼はあまりに似ていない。勘助は戦争の傷で異形だったため、今川の家臣に志願を却下されたようだ。武田は婚姻で今川とは深い親戚だから、そんな内容も知って余りある「勘助の才能」を買って生かしたのではないか?信玄はそのような才能を見抜く異能があった。数奇な人生の果てにオヤカタ様に拾われた武士たちは、その命を差し出した。信玄は「国は部下を食わせること。民百姓を餓えさせないこと」に気を配った。だから、民も部下もついてきた。その遺産は勝頼が短時間に消耗させた形。もし、勘助の遺伝子だったのだったら?という疑問がボクの中には混沌と残る。武勲で失った身体の欠損がない、若い勘助は、意外とイケメンだったのではなかったか?少なくとも勝頼は美丈夫。おそらく、由布姫の当時の美女のオモモチが半分。残る遺伝子の半分が、信玄なのか勘助なのか?と、夜中にうなされる日々。