ivataxiのブログ

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家康の母「お於の方」

戦国セレブ 「お於の方」

ネット都市伝説が元になっている。
武田信玄には何人か影武者がいた」という話を聞いた(ネットだから見た)。現代ならば、テレビなどで「そっくりさん番組」などで、似た人を集めることもできるだろう。戦国時代ではそんなに情報も広がらないだろうから、きっと違う方法だったのだろう。まだ、クローン技術もないから、それでもない。恐らく事前に自分の子供をたくさん作り、それを世継ぎの影武者にしたのではないだろうか。今と違い「一夫一婦制」ではない。側室(正妻以外の子供を儲けてもかまわない女性たち)もいたはずだ。似た子供ができたならば、その後の追跡調査もしただろう。お世継ぎなき場合、探し出してお世継ぎとしたという話も歴史上良くある話だ。そんな中の一つ。「信玄との間に双子をもうけてしまった側室の一人が、双子を連れて消えた」という一説もある。当時「双子」は「畜生腹」と呼ばれて、忌み嫌われたようなのだ。武田勝頼は信玄亡き後、武田軍を背負って世継ぎとなった。母は「諏訪の由布姫」と呼ばれた。諏訪城を急落させて、城主を切腹に追いやったのは、山本勘助だったという。城主には美しい娘がいた。「この娘と結婚させて欲しい」と、勘助は申し出た。だが「自分の父親を切腹させた男と結婚させる訳にはいかん」と、断られた。でも、親方様である信玄が側室に迎えて自分の子供を産ませた、それが勝頼だというのが歴史。勘助は異形の人だったという。戦場で体のあちこちに欠損があったようだ。今川義元の配下になるようにリクルートしたが、面接外観で落とされたようだ。今川と武田家は親戚だった。一旦、今川を落とされた勘助の軍師としての才能を買って、信玄は部下とした。多少問題があっても、何かに秀でた人材を囲ってうまく使う術にすぐれた信玄だったようだ。自分を買ってくれた信玄を「親方様」と、部下たちは慕ったようだった。信玄は部下の取り分を常に考えていたようで、無駄な戦いをしないことで農民からも慕われていたようだ。「信玄升」という言葉も、間違いない計りという、農民にはありがたいことだったようだ。そんな信玄と勘助の信頼関係に、由布姫の存在は割って入り、二人の関係をぶち壊しただろうか?ここからは推測だ。
周囲の意見を立てて、一旦、由布姫を側室に迎え自分の子供を儲けさせたということにして、実は実質の父親は勘助だったのではないだろうか?とも思えるのだ。とすれば、勝頼の父は勘助ということも考えられる。体が欠損前の勘助の姿は絵に残っていないから誰も知らない。少なくとも今残る画像では信玄と勝頼はあまり似ていない。信玄は今川との間に儲けた男の子と似ているが、幽閉して自害させてしまったので、跡取りは勝頼に回ってきたのだ。勝頼は武将というより公家の顔で、美丈夫だった。勘助も元はそういう容姿だったのかも?それまでは「諏訪一国の跡取り」として育った。戦い方や農民に対する態度も勝頼は信玄とはあまりに違う。戦いは消耗戦で、信玄が育てた武将を次々に戦に出して失ってしまう。たて続けの戦で、兵糧がいるから農民からむしり取る。田畑は荒れて、男手は兵に取られる。農民も信玄とは打って変わって憎しみを持ったかもしれない。信玄は後ろに控えて、軍師・武将を存分に使う。一方、勝頼は、自分の手で相手を切る。万一、怪我でもしては大変ではないか。そんな違和感を覚えるのだ。もしも、勝頼の父が勘助だったとしたなら、様々な信玄との違いもおかしくはない。
消耗戦で軍資金が必要だった勝頼。信玄の残した「津具金山」という場所がある。だが、その入り口は「長篠城」。ここを落とさないと、金にはたどりつけない。そんな流れが「本長篠攻め」にはあったのでは。徳川と織田の連合軍も「金山の利益」を知らないはずはない。
もう少しで落城という時に、一人の男が立ち上がる。
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)」という男。
彼は無名で階級も低い身分だったようだが、体が丈夫だった。しかも「顔が知られていない」ということが、城を抜け出すには好都合だったようだ。城を泳いで渡り「のろし」を上げる。新城から岡崎に走る。そこには「徳川・織田の連合軍」がいた。「少し休め」といわれるが、そのまま城へ走って戻る。「のろし」を上げて「もどったこと」を告げるが、そこで武田軍に捕まる。勝頼から「助けは来ないといえば、命は助ける」といわれる。城に声が届くところで「助けが来るから、もう少し持ちこたえろ」と、約束と違うことを叫ぶ。怒った勝頼は、見せしめに鳥居強右衛門を磔(はりつけ)の刑にした。その武士としての死に様に、敵対する武田軍からも感銘を受けた者もいたようだ。のちに旗印に「鳥居強右衛門」の絵を使う者も多かったという。
家康と織田の連合軍は「設楽が原」へ、戦いの場所を移す。武田軍は打って出る。自慢の「騎馬軍団」は「馬防柵(ばぼうさく)」で、止められる。しかも、火縄銃で交代で銃撃。当時は遠くまで標的が定まらないから近くに寄せる必要があり、馬防柵は十分に接近戦の持っていけた。「刀と銃の戦い」に戦国時代は舵を切ったのだ。
5騎ほどの馬と共に、勝頼は逃げた。その後はわからない。
戦場に近い集落に「逆さ桑」の伝説がある。
落ち武者が突き刺した杖を、誰も抜けなかったからそのままにしておいた。そこから桑が生えたのだが、それが逆さに生えたという。放置していたら桑は増えた。その落ち武者が「勝頼」だったという伝説だ。
そうそう、信玄と勝頼が似ていないのではないか?という疑問だ。
一方、ネット都市伝説で「家康と信玄があまりに似ている」という説もある。「信玄の側室が双子を産んで消えた」という話。それがお於の方だったなら?という疑問を個人的に持ってしまった。畜生腹(双子)なので、知られずに、一人を跡取りとして、もう一人を控え(影武者候補)として残したのではないだろうか?
家康の父「広忠(ひろただ)」は、岡崎城の跡取りだった。父が亡くなり、謀略で命を狙われた。逃げて関西まで行ったという。謀略は大叔父。今川の助けを求めて駿府に向かう。その代償に息子を差し出さねばならなくなる。まだ竹千代時代の家康だ。最初、織田に人質に入り、織田の今川方への人質交換で、竹千代は駿府へ差し出される。それが歴史。
家康の母「お於の方」は「お大の方」ともいうようだ。いずれにせよ発音は同じ「おだいのかた」だ。実家は水野家で、先に結婚していたのを別れさせたのが、家康のおじいさん。自分の側室に迎えたようだ。そして自分の息子、広忠の正妻にする。家康を生むが、また実家に戻されてしまう。実家から久松俊勝という別な家に嫁ぎ三人の男子を産む。二人は戦死。残る一人は人質時代に足の指を失う。その子がかわいそうで、後に人質に差し出せという要求を拒んだという。
逃げ回ってばかりの広忠だが、いつのまにか若くして家康という子供を産んでいる。亡くなる寸前に今川から家康を取り戻して亡くなった。
お於の方と、広忠というキャスティングは、家康という主人公のエピソード1には欠かせないのだが、不自然なところも多々ある。
天下を取って駿府城で、家康は家臣たちの前でおかしな話を残した。
「ワシはわずかな金で、坊主に買われた。家康の変わりに18歳まで過ごした。世良田二郎三郎元康というのがワシの名前じゃ」と。家臣たちは、殿はおかしなことをいうと、その話に取り合わなかったようだが。
もう一つ気になる都市伝説「家康は堺に葬られた」という話もある。「桶狭間の合戦で、逃げる籠に後藤又兵衛という武士が槍を突き刺した。あとで、籠を開けると、中で家康は息絶えていたという。それを堺の寺に葬った。後に、家光などもそこを参っているという」そんな話だ。もしも、その話が本当とするならば、誰かそっくりさんがいて、影武者として後の歴史の表舞台に出て活躍したのかも知れない。「世良田二郎三郎元康」という男が、家康の双子の片割れだったとしたら、妙に符号する気がする。
家康の跡、二代将軍となる「秀忠」の奥さん「江姫(ごうひめ)」は遺言で「家計図を大切にするのじゃ」と、言い残したという。確かに、徳川家の家計図は貴重だ。その中から皇室にも、嫁いだ女性たちも多く、たどると皇族に血脈が残る。
ならば「お於の方」は、家康から辿れる大元の女性だ。「戦国セレブ」といえるかも知れない。