ivataxiのブログ

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縄文人 シュメール

シュメールの歴史は10000年前から6000年前だとか。縄文人は16000年前からだというから、もっと古い。弥生人が来る起源前2000年前(今から4000年ほど前)、すでに日本以外に移住した一部の縄文人がいたのかも知れない。土器は圧倒的にすごい。シュメールの土器も洗練されているが、突然そんな文明が現れたというより、どこからかやって来たという方が理路整然。ヒコ島には変わった文字の痕跡があり、シュメールより以前の物とも。より住みやすい土地を見つけて、新たに文明を残したのだろうか。

 

鴨長明の岩

鴨長明の住んだ狭い組み立て式の家。その家は、土の上ではなく、大きな岩の上にあったそうだ。周囲には都を思わせる人工物はなく、川や水や鳥のさえずりが聞こえたようだ。鴨長明亡き跡、時の覇権の秀吉が、その岩の一部を城の一部としたという。なので本来、家が建つ平面があったはずの岩は欠けて残ったようだ。時の覇権も、部下の家康によりくつがえされた。たった一人の弱弱しいはずの鴨長明の「方丈記」。夏目漱石が後に英訳し、世界へ。権力は手にできなかった鴨長明だが、心は輝いていたのだろうか?

鴨長明 仏門

鴨長明は、神主の家に生まれて、父親の死後、庇護がなくなり、神官への就職を50歳(当時は今より平均寿命も短かっただろう)にもなって、親族から邪魔された。さすがに、心折れたに違いない。生まれた時代と場所が奇跡的。当時念仏を広めた、法然上人に会う(弟子に親鸞聖人もいたはず)。で、仏門へ。すごい方向転換だ。「ひきこもりの元祖」とも呼ばれた鴨長明。念仏が迫害され、法然親鸞島流しのころ、法然のお弟子さんの一人、日野氏の土地で隠遁生活。岩の上に方丈のプレハブに住んだ。バラバラにすると荷車二台で運べたという鴨長明の発明。狭い室内には仏を拝むスペースが。法然上人さまが亡くなったうわさのあと、方丈記は終わっていた。

縄文・弥生共存

浜松駅の西の「JR伊場工場」の東の端に「伊場遺跡」がある。聞くところによると「弥生時代」の形跡らしい。紀元前2000年から西暦600年辺りの栄華。一方、さらに北上すると「蜆塚遺跡」がある。博物館と同じ敷地。標高が少し高い場所なのに、どうしてシジミが採れたのか疑問だ。そこは「縄文時代」の遺跡らしい。16000年ほど前から海抜が100mほど下がったようで、そのどこかの時代に、シジミが大量に採れた集落だったのだろう。沖縄と北海道の在来の日本人は姿が似ているように思う。弥生人は九州・関西を中心に北上したが、途中で北上を止めている。稲作との関係だろうか。その北端とギリギリの接点に「伊場遺跡」と「蜆塚遺跡」が、争わず競合・あるいは時代が違うのだろうか。弥生の遺跡には武器で胸部などを攻撃した形跡や、首をはねた形跡も残る。農具は武具にもできる。刀や弓矢も進化したのだろうか。争うという派生に権力闘争もあっただろう。偉い人は古墳に埋葬されたようだ。縄文時代は氷河期からゆっくり気温上昇があり、最初は生きているだけでたいへんだったはず。弥生時代の人は温暖な日本を支配して進撃したのだろう。

三方原台地 中山

三方原台地は標高が高く、ゆるやかに海に向かって低くなる。三方原の合戦では、家康は信玄から逃げるにしても、大地のヘリから相手軍を落とすしたたかさ。「布橋」「さいが崖」の伝説は有名。海から見れば、浜松駅付近も海抜が低い。大雨では、海に近い南地区で冠水が見られる。市役所付近、下池川辺りはもとより池や湿地だったはずだから、水はけも悪い。最近のゲリラ豪雨などには太刀打ちが行かない都市計画。ゆるやかな三方原台地の傾斜は浜松駅から西に延びる鍛冶町通りの先の「中山」で止まるようだ。太古のことは推測の中だが、違う地層なのだろう。三方原台地の北端の「祝田」付近からは「ナウマンゾウ(毛のないゾウ)」が出たとも聞く。大陸の一部が氷河期以前に現在の日本の位置に移動した形跡。

都田 川から水を引く

現在の都田地区は、水利もちゃんとしているみたいだ。川の水をひいて貯めたりしているのだろうか。井戸を掘るのも大変みたいだ。かなり掘っても水が出ない過去があるとか。引いている水のルートに支障があると困る。

井伊の谷 湧き水

井伊谷には川も流れるが、井戸や湧き水もある。龍潭寺にはお寺と神社が併合されて共存している。そのさらに奥には、古代宗教「岩」を信仰したようだが。やはり水と無関係ではなかっただろう。「い」の国というようだが、紀州の「き」の国など、古くからある国の一つだろうか。