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賀茂真淵 名前

賀茂真淵賀茂神社末社の三男として生まれた。岡部という名前。幼い頃、岡部の別の家に養子に出され、その家に実子が生まれ戻される。二度目はまた別な岡部の家に結婚の形で養子に行く。だが、妻は17歳で亡くなりまた戻された。二度も養子から戻された賀茂真淵は世をはかなんで「仏門に入ろう」とも思ったようだが、生まれた家が神社なので「仏門はまずい」ということに。伝馬町の杉浦国頭家は陣屋として梅屋本陣と同じような立ち居地。6個陣屋があったそうだが、杉浦の陣の南の川口の陣とあと三つはわからない。杉浦国頭は、日中はすぐ西の坂を上った諏訪神社の神主を仕事にしていた。また、国学万葉集研究も自宅?で教えていたという。妻真崎は19歳、杉浦国頭31歳、門下の賀茂真淵は11歳。当時の男子11歳は結婚的定期。女性の19歳は「年増」以前ギリギリ女ざかり。ご主人との縁談は、真崎の叔父「荷田春満」の、学問中心の縁結び。杉浦国頭が亡くなった後は、真崎は別な墓地に埋葬された。(西来院)本人の意思がどんなだったかは未来からは想像の域。賀茂真淵は杉浦国頭の計らいで、梅屋本陣に養子に入る。三度目の正直。妻は彼が国学者であり、本陣経営には向いていないことを見抜き「江戸で学んで来なさい」と背中を押した。真淵は国学者万葉集研究者として歴史に名前を残した。岡部という名前に未練はなかったのだろうか?いや、三度も養子に出されて、食い扶持を減らす算段の実家の名前である。淵は遠州ふち郡の「ふち」をもじって「淵」の一字を当てたのだろう。「賀茂」は、縣居神社の本社である「賀茂神社」からとったのだろう。残る「真」の一文字。まったく想像だが、塾の若奥さんであった「真崎」の「真」ではなかっただろうか?当時、優れた女性も男性の名前の影に隠れる時代。すごい女性たちが浜松には集まったようである。