ivataxiのブログ

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うなぎ

17歳まで過ごした大阪では「今日はウナギやで」と、母がいう日には「アナゴ」が出て来た。そのアナゴを当時のぼくは本気でウナギと思い込んでいたフシがある。初め湖西市でウナギを御馳走になった時に「大阪のウナギとは違う味だなぁ」と、漠然と感じていた。胴体の形は似ているのに味がもっとまろやかで甘味さえある。脂が乗っていて、それは単に味付けの違いだろうとも思ったのが、実は食材自体まったく別物だったようなのだ。買えば高価なウナギだが、幸い市内のウナギ関係の親戚から時折いただくこともある。もしも都会の人にウナギを送ると反応が過激なのはいうまでもない。科学の進化した現代でさえ「ウナギの産卵について」はまだまだ未知なことが多く、太平洋の真ん中あたりらしいということになっている。かつてそこには太平洋の真ん中に山や川を持つ平和で豊かな大地が存在したとでもいうのだろうか?(ヨーロッパのウナギもかつてアトランティスが存在したという伝説の示すあたりに産卵の地があるようだが、良くできた稀な一致という他ない)現在は、たまたま浜名湖にウナギが登って来る訳だが、それは人間が頼んだ訳でもはなくウナギの諸事情によるものである。かつて聖徳太子の時代には、斑鳩の地は海上交通につながる広い川を持つ立地だったのだとか。琵琶湖も今よりずっと南にあったという話しもあり、太古の日本は今とは地形が随分と異なっていた可能性がある。ウナギはそんな地形の変化に合わせて、次第に海から昇る川を変えて来たのかも知れない。現在、渥美あたりにもウナギは昇って来るという。浜名湖も、江戸時代に地震津波により今切れで太平洋とつながる以前は、地形が違ったはずだ。もっと内陸にあった小振りな浜名湖から浜名川がほぼ海に並行に流れ落ちていたという。浜名湖につながる川も今では多くが人造でコンクリートの川底なのだが、大正時代には深く植物も生い茂っていたようだ。川底に竹の筒の芯を抜いて中空にした物を寝かせておけば、翌朝、入って抜けられなくなったウナギが入っていたとも聞く。どうやらウナギは前には進めるがバックが苦手らしいのだ。人工の河川になった今ではそんなこともできなくなったから、考えてみれば大正時代は贅沢な遊びをしていたことになるだろう。養鰻の池も多くが埋められていて、別な不動産として転用されている。国産のウナギは値段では輸入ウナギに対抗できなくなったというのが原因らしい。でも近年では安心感で国産が高くても求められる傾向だが、何しろ絶対数が少ないのだから儲かるかどうかは疑問である。
バブル期当時に住んでいた賃貸マンションに、アメリカ人親子三人が一泊したことがあった。こちらとしては随分と無理をして食卓に並べた「ウナギの白焼き」なのだが、彼らはウナギを「イール」と呼んで、気持ち悪い物のように思っているのが表情から読み取れた。どうやらウナギはアメリカではシマシマのウミヘビとほぼ同義らしいのだ。肌が黄色く、瞳と髪の色が黒くて、背の低い日本の現住民にウミヘビの白焼きみたいな物を「コレ ウマイ クウ ヨロシィ」といわれれ、無理矢理食べさせられることになったとしたら、泣きたくもなるという話なのである。実際、その子供は泣き出してしまい、付け合わせのトウモロコシと大豆の方を美味しそうに食べていた。
弁天島には「うなぎ観音」というのがあるようだが、きっとウナギの供養のために建てたに違いないと思っていたが、地元の人の話では少し違うようだった。今切れができた頃の津波で、その場所に偶然流されてきた観音像を「うなぎ観音」として祀ったということらしい。やはり天災などに対する畏れと信仰心が関係しているのだろうか。
平賀源内が友人のうなぎ屋を繁盛させようと「土用にはウナギを食べるのが良い」と広告したのが土用丑のウナギの起源とも聞いた。それ以前は現在程にはウナギは食べられていなかったのだろう。江戸の住宅事情は狭さを極めていたはずで、注文を受けてからしばらくは放置されるうなぎ屋は、しばしば恋人同士の密会の場所として珍重されたようだ。現在でも、焼き上がりに時間がかかるので、接待にも利用されると聞いたが、そんな江戸時代からの流れの顛末なのかも知れない。