ivataxiのブログ

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新座市都民セコニック前

秋に神奈川の専門学校を辞め、
すぐその足で御茶ノ水美術学園の夜間デッサンを受講することにした。
やり残したことを埋めるみたいな気持ちで、デッサンがイマイチなのが気持ち悪かったのだ。
鉛筆で書くのが当たり前だったが、ここでは木炭デッサンだ。
御茶ノ水の駅に檸檬という画材と喫茶が一緒の店があったと思う・・うる覚え
木炭は木の枝を炭にしたものだから、芯は外と違う質感なのだ。細い針金でその芯を抜く。
フーっと吹いて中の灰を噴き出す。最初はあまり考えずに店の人の言いなりで画材を揃える。
デッサンだけだからあまり荷物は多くない・・・
といっても紙を丸める訳にはいかないから
カルトン」という紙を開いたままはさむカバンも持ち歩くことになる。
満員電車のカルトンの位置に気をつけないと痴漢扱いされるが、手を上にあげることができない。
中央線御茶ノ水からともかく池袋に行き(ルートは覚えていない)、
しばらく歩いて西武池袋線に乗り換える。大泉学園からはバス。
(今でもあるか?)終点都民セコニック前で降りる。
朝霞基地(これもある?)のフェンスの横をつらつら歩く。
何しろおじさんの家はフェンスの横だから、風景は最悪の殺風景だ。
専門学校からすぐにお茶美に入ったと書いたが、
いや記憶が曖昧なだけでしばらく叔父さんの家の雨戸を締め切って、
何もしなかった時期もあったような?都合の悪いことはあいまいな記憶なのだ。
埼玉の叔父さんは池袋の和食のお店に住み込みで修行中だった。
そこが家なのに時折もどるだけで、滅多に泊まらない。
おばさんは富士見台にパーマ屋さんを出していて、そこでおばさんの母親・妹たちと住んでいた。
おばさんもぼくを心配して顔を出すだけで基本、一軒家に一人住まいみたいだ。
「おなかすいたらこれ食べて」と、
おばさんはアルミでできた鍋のインスタント鍋焼きうどんを山盛り置いて行く。
ぼくは自分の好みでインスタントラーメンを買い置きするから、家から出ないまま数日が過ぎた。
「ヒキコモリ」という言葉はなかったから、当時「変人」といわれていたのかも知れない。
ヒキコモリにも飽きて、セコニック前の商店(今はスーパーに取って代わられたかも?)に出かけた。
ラグビー部の合宿所の飯炊きを一年やったが、夕飯はお母さんたちが作るし、
ぼくは温めるだけのレトルトや炒め物・味噌汁くらいしか作れないのだ。
一人だからお肉屋に行き「豚コマ」を買ってフライパンで炒め、ご飯は炊くのは慣れているから、
それで食べていた。肉屋のおじさんはいつも豚コマだけを買うぼくを見かねたたのか
「スタミナ焼き、豚コマと同じ値段にしてあげるから買ってきな」という。
味付けがしてあり、ニラなどのいかにもスタミナのつきそうな物が混ぜ込んであるから、
フライパンで炒めると香りが違う。
豚コマよりは少し豊かな生活だが、ぼくはあの貧しい豚コマの香りを忘れない。
今も時折、昼げの横を通る時「豚コマ」の香りをかぐと、当時を思い出す。
ヒキコモリのぼくも、肉屋の夫婦だけでなく、やがて八百屋さん・魚屋さんとも話すようになり、
少しづつ食生活が豊かになって行った。
おじさん夫婦はもちろん家賃を要求しなかったばかりか、いつもぼくに何か買ってくれようとした。
だが、洋服の好みはすごく実用的過ぎて、少し欲求不満いもなった。