ivataxiのブログ

絵 文章 映画

ゼロ戦 無理な注文

ゼロ戦は「航続距離・戦闘能力」を求められた。エンジンは世界レベルにはなく、航続距離と戦闘能力を高めるため、グラム単位に鋼材を削って行った。パイロットの背中の鋼板もない。なので、一発人間に当たれば終わり。羽などに当たれば燃える。鋼材が削られているため、急降下からの旋回で主翼がもげることもある。一方、すべてが省略されているから、パイロットの技術さえあれば、攻撃態勢は神業を実現できた。初戦の中国で、無傷で二倍の敵機を撃墜。アメリカは「そんなバカな」と、信じなかったとか。「ゼロ戦に遭遇したら退却」という命令。アメリカ軍はパイロットは取り返しがつかないという結論に達していた。一方、日本は優秀なパイロットをムダに減らす戦況。やがてパイロットが不足して劣勢に陥ったという。

映画「ステルス」 ステルス機能

映画「ステルスの中で、戦闘により、ステルス機能が失われたという場面があった。でも、どうしても敵国に墜落した女性パイロットを救いに行かなくてはならない。「速度を落として、地上4.5mで飛ぶ」という選択肢。そうすればレーダーに写りにくいらしい。

弥助

弥助

ブラックパンサー」(マーベル/アベンジャーズシリーズ)の俳優さんが演じる「弥助」という映画を作っているそうだ。キリスト教徒の奴隷として、信長に会わせた黒人の話。体を黒く塗っていると怪しみ、上半身を裸にしたり、体を洗わせたという。でも、新しい物好きの信長は彼を「弥助」とよび、傍に置いたそうだ。本能寺のあとも、信長の息子を守ろうとした。明智光秀は「黒人は動物だから殺さなくとも良い」と、彼を解放したそうだ。また、キリスト教会に戻り、その後の消息はわからない。

山本勘助

甲陽軍鑑 市川文書 山本勘助

「歴史人」2017/11(no.83)。実在か架空の人物かわからない「山本勘助」。1557/6/23付け「猶可有山本管助口上候」という書き込みがある。「勘助」「管助」程度のあて字は、当時当たり前だという。これが「山本勘助」の実在を証明することとなったという。

戦国アスリート

本長篠は良く「田峰観音」に水をくみに行ったので、何度も通った。でも「長篠の合戦」のことは知らなかった。武田勝頼の軍団に攻められた長篠城は周囲を、寒狭川(かんさがわ)の囲まれていた。徳川に援軍を求めた「鳥居強右衛門(すねえもん)」は、その川を渡り、片道65kmを二日で移動して武田軍に捕まった。磔(はりつけ)にされ「ウソをつけば助けてやる」といわれたが「もうすぐ徳川の援軍が来る」と、本当のことをいって処刑された。その武士としての生き様に敵軍でさえ涙。彼の姿を旗にして持つ武将もいたという。
川を泳いで渡り、片道65kmを二日で走った彼の体力をぼくは感心した。戦国トライアスリート

信玄 諏訪の御料人 勝頼

信玄は自らが滅ぼした「諏訪氏」の美しい女性「諏訪御料人」を側室とし「勝頼」を産ませる。だが、すぐ勝頼は母から離された。信玄もあまり側室を訪れず、24歳の若さで諏訪御料人は亡くなったという。だから、後に勝頼が武田の跡取り(実際には彼の息子が元服するまでのつなぎと信玄は思ったかも知れない)となることを見てはいない。
信玄は冷たい人の印象がある。
だが、諏訪御料人は当時の不治の病「ロウガイ(結核)」だったともいう。子供も早く離さないとうつるということがあったのではないか?信玄自身、亡くなったのは「結核説」がある。おそらく、諏訪御料人から菌をもらったのではないだろうか?
息子を早く離したのも、ある意味当時の最高の愛情だったのかも知れない。諏訪御料人も自分の病気を知っていただろうから、より良い選択と納得してくれたのかも知れない。という考えが成り立てば、信玄も意外に優しい人だったのかも?とも思える。

軽便鉄道

軽便鉄道に乗ったことがある」という人はある程度年齢が高い。浜松では伝説の鉄道なのだ。JR浜松駅の西に「新浜松駅」という単線がある。遠州鉄道、略して「エンテツ」の路線。新浜松駅から西鹿島。そこからは、新所原から掛川までの単線「天竜浜名湖鉄道」略して「テンハマ線」が乗り換えとなる。「軽便鉄道」は、更に別な路線だった。途中、エンテツが経営参入するも撤退してしまう。コンコルドホテルの南の傾斜・静岡大学の東の自転車道路などが、その名残りだ。当時は「奥山鉄道」と呼ばれた。バスの奥山行きなどの路線が代替交通なのだろう。線路の跡が狭いから、きっと車両も小さかっただろう。「坂道では乗客が降りて押した」伝説もある。押せるくらいだから軽い車両なのだろう。